なが〜いプロフィール

BGM 夜と女とため息より「おねがいよ」

 子供の頃、ジャズ、ポップスを米軍キャンプで歌う。三鷹グリーンパーク「NCOクラブ」からLIVE中継(「FEN:極東放送」1998年からは「AFN:米軍放送」と呼称)でフルバンドのSingerで、「C・バレンテ」の「マラゲーニア」を歌った。オトナのお色気チャラチャラのお姉サマ歌手たちはだれもこの曲を歌えなかった。

 14、15歳の頃、サパークラブとキャバレーで歌いたいといったら、「もうチョット大きくなって、コウなったらネ!」とオッパイを膨らませるジェスチャーをされた。でも‥年齢で、ダメと言われたけど、大人のドレスを着て、メイクをすれば判らないので歌ったことがある。ペチャパイのギスギスだったけど歌はオトナだったからマァーネ、ってことで‥。それから暫くしてデビューってことに‥。

 

 1960年代

 「テイチク」17才で、レコードデビュー。

 「死ぬほど愛して」「銀座の恋の物語」「牧村旬子ヒットソング(アルバム)他オリジナル。

 

 ポリドール(現、ユニバーサル)

 「誘惑されて棄てられて」「愛の目覚め」「ベッドで煙草を吸わないで」他オリジナル。

 

 ミノルフォン(現、徳間ジャパン)

 「今夜おしえて」他、7曲レコーディングしたけど、7ヶ月くらいで辞表出したから、シングル2枚で、チョット悪いことしたナァーと、思いました。

 レコード会社と専属契約をしてても、同時期に、色々の会社から依頼で、カーステレオ「8トラック用」レコーディング(今だったらきっとダメ)。曲数もどんな曲歌ったかも忘れた(適当にパッパと歌ってくれるから、便利だったんじゃないの?)次から次に頼んできたので、さすがに、イヤになって後半、断った(あとで、クソミソに言われたけど?)‥プロダクションマネージャーなしダッタから‥。只、ロクなマネージャーいなかったから‥。

 

 私一人でレコード会社に、出たり、入ったり「辞表と契約書」互い違いに出しに行っていた。辞めた訳は、会社は私のプロモーション活動はゼロ。私にとって(どうしてなの?なぜなの?的な理由)。牧村は、ほっておいても売れるから、ラジオ、テレビは出さなくてもイイ!とか‥。

 当時、女性歌手と出来ていた宣伝部とか、何時の時代も、何処にでもあるような話だけど、「ひどい、なぜ?の嵐」状態。その「歌手たちの三角四角の関係の一人の歌手が、私に「話」をしてくれた(Pillow talkでの「話」をね!)、そういう状態のまア、今ならグループによるパワハラセクハラダネ!

 遠藤実先生が、荻窪で近くだったので、不満話をしているうち、「だったら、ウチに君みたいな歌手、居ないから、来ないかい?」という事で、ミノルフォンに移籍したけど「演歌」が主流で、どうしようかな?と思ってたら‥。

 再度、ポリドールから「「前のことは、とも角として」(意味不明)今度は「アルバム(LP)歌手として、別格な扱いで、帰って来ないか?」というコトでポリドールに帰った。

 「夜と女とため息」シリーズ。同じシリーズで「8トラック」、他。

タイトル知らない「LP」、レコーディングはしたけど、どんなタイトルのLP?、発売されてたことも、知らないのがあり、自身持っていないのもあり‥で、「スキャット歌手」みたいになって着た。

 

 「夜と女とため息」シリーズとしては、セクシー路線。レコーディングは真夜中から始まり、スタジオは真っ暗。私一人。ミキサールームもエンジニアさんの手元がほんのり分かる位の明るさなので、私からは見えない。スタッフはディレクター、エンジニア、アシスタント1人の2、3人から始まる。

 歌い方はウィスパー唱法(Whisper)(時たま若い歌手が得意になって、「ウィスパー唱法で歌ったんですヨ〜〜オ」)なんてラジオで言ってたけど‥。?0年前からそんなのコッチはやってたわヨ!‥と「笑」。

 ソフトに優しく、オンナっぽく、ムーディーに、そしてスキャットの間に、セクシーヴォイスで「は〜〜ん」とか、色っぽく「笑い声」とか「ふ〜〜ン」ため息で、歌のような歌でないようなメロのハミング、ミキサールームは、ガンガン、セクシーム−ドに。なぜか?知らないスタッフさん達が聴きつけて「ウイスキー」誰かが、持ってきた。2回目からは、最初から「酒」がスタンバイ、私も飲みながら、歌ったのもありです。そして明け方近くにレコーディング終わった時、ミキサー室は「アンター誰よ〜」というような、知らない人達でいっぱいになっている。社外の人達もいる?スタジオはナイトクラブ化してきた。私のセクシーレコーディングだと伝え聞いてスタジオのスケジュール表をミレバ分かる。

 このセクシー路線は「バ〜〜ン」と派手には行かなくても、マアマア会社としては悪くない(売れたらしい)。只、こういう路線は、売れてても派手に売れたとは、あまり言ってくれなかった。今だったらどうかしら?ね‥。でも私としては、最初の「夜と女とため息」の2集ぐらいまでは面白かったけど、3集辺りからダンダン「イヤ」になってきてツマラナクなって来たし、ウィスパーで歌って、「ハ〜ン」「ふ〜ん」にも飽きてきた。それでも第6集まで続いた。第7集の話があったところで、だんだん「スキャット歌手にする」みたいになってきたので辞めた。

 

フリーに

 各会社(メジャー)で、オリジナル曲(シングル)、沢山出したけど、殆ど歌わなかった。作詞、作曲された先生方たちには、悪かったなア〜と思うけど歌いたい曲が無かった。外国曲のカヴァーは歌った。で!!思うコトは、時代、会社のカラー、先見の目で育ててくれるディレクター、そして「運」に巡り逢わなかった?

 1970年代に入る頃、スキャットを主にLPをレコーディングしてた頃から(1967~8)ポチポチ(何となく)、曲作りを始めてた。最初に居た会社の人とか当時、有名なアレンジャーさんに聞かせたら「バカヤローこんな歌、誰が歌うんだ〜〜?演歌作れ〜〜」と怒鳴られた。今から思えば、こんな古い頭で業界で威張ってるような人に聞かせるんじゃ無かった‥「笑」。そうだろうなあ〜とは分かってはいたけれど‥。

 

 

 1975年に戸川昌子さんが、東芝から「失くした愛」というアルバムを出した。良き時代のシャンソンが主の中に「金曜日の晩に」だけが、私の作曲したオリジナル曲。ヨーロッパの名曲ばかりのアルバムだから、「金曜日の晩に」も最初、外国の曲だと思われてたらしい(アチラの国だから、何でもいい訳ではないけど‥)。後で、誰が作曲なの?という時に「じつは〜ジュンコ」となった。

 「シングル」は、リリー・マルレーン、B面に「金曜日の晩に」となった。ペンネームは「神戸真理子」という名前で出しています。

 1980年代に「銀巴里ライブ、切に生きて」を「戸川昌子」さんがアルバムとカセットテープでリリース。「金曜日の晩に」と「エピローグ」「筆名まりえ・まり」の2曲が入っています。

 

 年代は忘れたけど、ちょくちょく、色々(メジャー系デス)レコード会社から昔、「売れた俳優さん」バラエティの「お笑い系タレント」「モノマネタレント」とデュエットしないか?という話がありました。中にはメジャーレコード会社というコトで「高ビー」で「歌わしてやる」みたいな「アホー」プロデューサー(ディレクター)とか「どんな歌?」って聞いただけで「もったいぶるな!」。(会社名は言いたいけれど‥まあヤメトキマス)偉そうに言うのネ!

 ”銀恋”のあの女が、「丁度いいや!」位に軽く考えたんじゃないの?長い年月の間に、どれくらいあったか?忘れたけど全部「NO」。

 周りは、「やればいいじゃないの〜」「何がどうなるか、わからないわヨ!」っていって他けれど、私、チョット変わってるから‥イヤナコッタ。