私の最初の、音楽

 殆んどと言っていいぐらい誰にも(話)したコトが無い。別に話すコトも無かったから・・・と言うのは・・・。7,8才位から歌うようになったのは本当だけど、歌う少し前、はっきりしたコトは覚えてないけど、「木琴をやりたい」と姉達(3人、私と10才以上離れている)に言ったらしい。日頃から幼い私と妹を可愛がり、とくに私にカワイイ格好させたりして喜んでいる姉達はすぐパイプの付いた木琴(本格的な)を買ってくれた。今では全然覚えていないけれど、姉達の昔話では、デパートに私を連れていったとき、その楽器を見て「アレッ、弾きたい」と言ったらしい。姉達は「子供用のシロフォンじゃ無いから無理よ!」って言ったけど、「ヤリタイ」と言って拗ねたらしい。木琴の下にパイプがついている楽器、マレット(このネーミングは最近、ネットで知った)「両手にもって叩く玉のついた棒」と言っていた(笑)いま思うと7才の(ガキ)には勿体ない限りだと思うけど、値段も安くなく、?万円もしたと、何年も経ってから、ボヤイていたのを思い出す。姉達3人で出し合ったみたい(割り勘?)。

 同志社大学の「タメザキ」さんという人(ハンサムで、女垂らしだったらしい)が「シロフォン」の先生で、私の木琴の先生になった。どういう風に習ったか忘れたけど、「ホーマンのヴァイオリン」の教則本で勉強したような気がする。多分譜面は棄ててないから戸袋の奥を探せば出てくるかも?習う期間はそんなに長くなく、歌の方に気持ちが変わったから1,2年ぐらい、小学校に入る前後の頃?経緯は忘れたけど、その楽器で他の小学校の演奏会に呼ばれ、ピアニストを連れて「演奏」したことがある。「ト調のメヌエット」という曲を演奏した。私が途中でチョット間違えたとき、チラッと、ピアニストの方を見たので、聞いている人達は「ピアノ」が間違えたと思ったらしく、ジローッとピアニスト(若い人だったか中年だったか、男性)を見てた。ピアニストはきっと何で自分がジローッと見られるのかナー?と思っていたかもね、気の毒なコトをした。他の小学校での演奏も2回やった。きっと、「タメザキ」先生の計らいで行ったんだろうね・・・思い出せない。

 3番目の姉さんが、この先生のコト、ちょっとLOVEな気持ちで、10代のお年頃だったみたい(私を出しに使ったナ〜)と勘ぐった。

 だんだん難しい曲になっていくとき、出来なくてよく叱られて泣いた。楽譜に赤いマークや青いマークで書き込まれて何回も出来るまで、シボられた(3才下の妹が見ていたらしい。オトナになってから聞いた)。木琴の上に涙がポトポト落ちて、涙が木に染み込む時間が経てば乾くけど、次に先生が来るまでに練習して、出来るように・・・。それで「姉さん練習させようと、チクチク私をイジメてた」と妹が言っていた。(ゴツン)と頭をやられた記憶がある。段々上手くなって来て「トルコ行進曲」「クシコス・ポスト」「サンサーンスの白鳥」はトレモロなどで、マアマアまで弾けるようになった。

 それから、この「タメザキ」先生の紹介だったのか覚えていないが、若しかしたら近所にも色々な人達や、変わった人達、母も若くてお喋り、賑やか女で、スグ「家の娘がドータラ・コータラ」と喋るうちに(賑やかな家族で、私が歌や木琴、妹がバレーとタップダンスを習っていたのを近所の人は知っていた)、ある日突然、「こういう有名な人がいるから、その人の前で、木琴を弾いて聞いて貰え!」(私は子供心に余り嬉しくなかった)アメリカで有名とか、そんな話をチラッと聞いたような気がしたけど、別に何だか良く分からなかった(後年、その偉い音楽家の人は「平岡養一」と言う著名なシロフォン奏者だったと分かったけど、この時点ではそんなに凄い音楽家とは知らなかった)。その平岡養一さんのところ(場所ははっきり覚えていない、ホテルだったのかどこかの練習場所だったのか?へ連れていかれて「クシコス・ポスト」という曲を弾いた。「Glisser」入れて、習った通りに弾いた。木琴は持っていったような気がする。現場の楽器だと、背が高すぎて(自分のは、下の支えている金属の棒を、ネジで高さ調節している)。3番目の姉と「タメザキ」先生がついて来た。この話を最近姉としたら「私がついて行った」と言っていた。姉か「タメザキ」先生のどちらかが「才能ありますか」と聞いたか分からないけど、「才能はある!だけど努力しないと、駄目だよ!」って言われたらしい(マア、誰もそう言うかもネ!)ただ「タメザキ」先生は私のコト「幼いのに、何時も感心していた」と姉に告げていたと、姉が私に言った。私をネタにウフフ・・・だったんじゃ・・・(笑)。でも、私は歌の方に気持ちが向き始めていた。木琴は米軍キャンプのショーで、アンコール、アンコールの凄いミュージシャンの人がいて、私も真似して「マリンバ」で・・・と思ったけど、「アメリカンパトロール」という曲でダメだと実感した。というのは、両手に2本ずつマレット4本で練習になったところで「努力」するの「ヤーメタ」っと。それに、パイプの付いた木琴の重いこと、演奏する時、楽器を持って行かなきゃならない。姉達はみんな仕事を持っているから無理、何処かの楽団の所属なら運んでくれるだろうけど、ソロでは大変と思った。それでアッサリと木琴練習をヤメタ。

 同時に歌も歌っていたから歌だけで、米軍キャンプをベビーシンガーで歌い始めた。でも東京に引っ越したとき、木琴はそのまま持って来た。私が20代半ばまであったような気がする。荻窪にいた頃、母が隣の女の子?か近所の子供?にあげたような気がする。使っていたマレットは少し所々、叩いた後のヘコミのように減って欠けていたけど、長く家に有った、人にはあげなかった。やっぱり思い出があったかなァー(笑)今はないと思うけど・・・物が増えてきたから棄てたかも・・・。

 

 平岡養一さんのコト

 知らないと言うコトは大変、失礼なコトなのだけど、ネットで「平岡養一」さんで調べてビックリしました。偉大なるミュージシャンで、いくら昔々(Once upon a time)とは言え、私などの「ジャリ」の演奏を聴いて貰えるなんて、アドバイス的、お言葉を頂くなんて(その時は、別に〜フ〜ん、そ〜か!ぐらいの気持ちで聞いた)マァ、子供だったし、どちらかと言えば「努力」という熱心さは余りないような性格だから、木琴、パッと辞めちゃったけど・・・。平岡養一さんは1981年まで活動していらしゃったのネ!歌謡曲は聞かれなかったかもしれないけど、何処かで「銀座の恋の物語」聞かれたこともあるかも。・・・京都でのあの「クシコス・ポスト」を引いた、7才の女の子の声だと知らずにね・・・。Once upon a timeなお話でした。End。