​東京メトロ(発車メロディー)
​〜銀座の恋の物語〜

​ 東京メトロ、日比谷線「銀座」駅の発車メロディーが、お客様リクエストによって「銀座の恋の物語」が選ばれた。なぜ?Old-Songが今?懐かしさで胸キューン!の(想い)をメロディーに乗せて発車するのでしょう。流れるメロディーと一緒に、胸の中で口ずさみながら‥優しい気持ちに‥。

 

 子どもの頃、荻窪に住んでいた。JazzやAmerican-Pops'を歌い始めた(女の子)。姉たちがAmerica版Seventeen誌を見ながら、私に(大人のようなませた洋服)を作ってくれて、荻窪の町、レコードショップなどに出かけた(マセガキ)だった。

 

 16歳半ば、オーディションの話が来たけど、その会社が(チャンチキおけさ)のイメージで‥ナ〜ンカネ。どうしよう〜???と思案していたら、「オーディションに受かったら、犬飼ってもいい」という母の一言で‥で、そして真っ黒な「スコッチテリヤ」が家に来た。(今)では犬のお洒落は珍しく無いけど昭和35年(1960)あたり、中型犬で、黒いボディ(毛)に赤いベスト、背中に黄色い骨のアップリケを着せて、手と足(4本)に真っ赤な、マニキュアとペディキュア。外に連れ出すとみんなビックリこの(娘)少し可笑しいんじゃナァ〜い?でした。

 特に犬の散歩役となった母が被害者となり「恥ずかしい」ってボヤいていた。犬のベストは脱がせても、マニキュアはそのままなので、やがて荻窪界隈ではマニキュアした犬がいると有名になりました。

 「銀座の恋の物語」歌は1960年(昭和35年12月)日活のスタジオでリリース、レコード発売は翌年早々。爆発的に売れたけど、私自身は「洋楽系」の歌しか歌わなかった。ステージで歌う為の譜面も作らなかった。映画「街から街へつむじ風」の挿入歌の為に、現場でクシャクシャと書いた譜面を貰い、私の歌い方じゃなく、歌謡曲は初めて、初見で歌った。こんな「Situation」で歌った歌が「後世」この様な形で残るとは思いもしないし、家に帰ってから、「どんな歌?」と聞かれてもケロっと忘れてた。サビの「東京で一つ、銀座で一つ」の部分ぐらいであとは思い出せなかった。

 この時、思ったけど「ヒットさせよう」と計って、一生懸命練習したり、努力したり、お金かけてプロモーションの限りを尽くしても、儚く消える歌が、殆ど、人の心に残るものは理屈じゃないのかもね!

 

 初見で、パッと雰囲気掴むのは苦手な人もいるけど、私は他の歌でも何回も唄わせられたり、練習させられると、だんだん乱れて悪くなるタイプ。だからレコーディングは「Take-2」が決め!人によってはやればやる程、良くなる人もいるけどネ‥

‥性格かナァ〜かもネ!

 「銀座の恋の物語」も最初従来通りの歌い方で、一回聞いてみたら、女が強すぎて、男が霞んでたので、こりゃイカンと思い、少し柔らかく引いた歌い方に変えた。これがTake-2、つまり、今の本命版。10代の未だボーイフレンドのいなかった私‥。

 この歌が発売されて2年半位は、歌わなかったので、いつもスッタモンダと揉めまくり。まあそうだョネ!今だとネットで総攻撃だね。3年後位に映画「銀座の恋の物語」の主題歌になってから、ステージで歌う様になった。一緒に歌いたいお客が何時間も前から待っていたり、大阪のお店などではステージの上で、大喧嘩になったり、(3日間の出演契約だったので)翌日から2日間は2メートル間隔ぐらいに、警備の人がステージに5,6人立って、ジィ〜と睨んでいた。最初は人数が多いから「ワンコーラス」ずつね!だったのが、人が次第に溢れて来て「ワンフレーズ」ずつになった。歌いたいお客はガッカリだし、バンドの人達はブーブーボヤいて「あとどれぐらい奏るんだよ〜終電に間に合わねぇーよ」。エンドレスだから、なんとなく「テンポ」が速くなる(笑)。店からは「あしたのステージは他の歌は歌わなくていいから、とにかく牧村さんと一緒に歌いたいお客さんが昨日から待っているのでお願いします」と大変だった。本物の「牧村旬子」とデュエットすることで「裕次郎さん」になった気になるんでしょうね。まだカラオケ時代に入っていない生のフルバンドで歌った時代。紛れて、中学生みたいな男の子も歌いに出てきてビックリ、父や母達がよく歌うんだって!歌が年齢を問わず流行っているんだナァーと実感しました。

 

 「銀座の恋の物語」に関して、言いたいことがある。日活映画「街から街へつむじ風」の挿入歌としての「銀座の恋の物語」。後に歌がヒットしたので、映画「銀座の恋の物語」。勿論主題歌となり、「銀恋」として、カラオケのデュエット歌謡のことだけが取り沙汰されるけど、歌った本人から言えば、「絶対!的」にと言っても、いい位この歌の良さを出したのは、映画「街から街へつむじ風」で歌うラストシーンで、勿論、裕次郎さん、女優さんは南寿美子さんが私の声に合わせて(口パクです)歌われたのです。多分知らない人が多いでしょうけど?ラストシーンで4コーラス(忘れたけど、多分です)このインパクトが凄くて、この映画を観た客が帰途レコード店に押し掛けて、行列ができて品切れ、 荻窪のレコード屋さんが、その当時(母が犬を連れて、よく市場に行った帰り道、よく世間話をしていた)「お宅の、お嬢さんの歌ね〜毎日、品切れで‥。頼んでるのに、中々入荷しないのよ〜」 って、ボヤいていたって‥。

 この「街から街へつむじ風」のラストシ−ンの歌「銀座の恋の物語」を歌うシーンを観たら、「今」知っている「銀恋」と言う歌のカラオケのイメージと、たまにTVで映画の「銀座の恋の物語」だけの、イメージ。一寸違うことに気がつく。「街から街へつむじ風」の方を是非お薦め!

 よく日活の他の女優さん達の歌うシーンの歌も頼まれました。中には「山本直純」さんの曲もありました。これも譜面渡されて1回しか弾いてくれなくて‥。「ハイ!分かるよなァ〜」で本番、一寸、頭に来たけど、マァ!唄えたからよかったけど‥こんな不親切な人、いるかナァ〜と‥。今だったらもう出来ないと思う。若いってやれちゃうのね!

 デビューしてから4,5年目位の頃、その頃もデビューする前の15〜6歳の少女の頃と、荻窪での日々は、何にも変わっていない。相変わらず、愛犬にマニキュアして、花の首輪を巻いて荻窪駅南口に向かって歩いていた。中通り商店街。花屋、お肉屋、駄菓子屋、焼き鳥屋、豆腐屋さん、順番に「来たヨ〜」「キタヨ〜!」「キタ〜キタ〜キタヨ〜」と言いながら、何人か?出たり、入ったりして私をジロジロ見に来る訳ネ!はじめは気づかなかった。だって子どもの時からいる所だったから。でも、やっぱり知れちゃって、ニッコリ笑わなきゃならないし、たまに手も振らなきゃならないし、私はあまり好きじゃない芸能界では、これは駄目と分かってるけど、苦手!

 中通り商店街を駅に行くたびに毎回そうなってきた。それが嫌で、今度は裏通りから駅に行って、地下鉄荻窪線に乗った。(東京メトロ丸ノ内線荻窪始発駅は1962年1月に営団地下鉄荻窪線として開業-1972年荻窪線を丸ノ内線に名称統一)。

​ このメトロ荻窪線は開業以来私は利用していた。また、クラブやキャバレーで歌っていたので遅くなる私を母が「テリヤ」を連れて迎えに来てくれた。そして駅員さん達とも仲良くなっていた。

 1964,5年頃かなァー、はっきりしないけど、シーズンも忘れたけど夕方、16時〜19時30分頃、何時ものこと、メトロに乗るために荻窪駅に来た。階段下りて中程の所の左側に「次は○○線から、何時何分発車〜池袋行きー」とか言う駅員さん達のいるガラス張りの放送室があった(一寸した「サテライト」みたいな感じだった)。

 改札は未だ手で、チャキ、チャキの時代。駅員さんも私のこと知ってて、ニヤニヤ、ニコニコしながら(中通りのキタ〜キタヨ〜の続きみたいな感じ)で「いってらっしゃ〜い」と何時もより妙に、他の駅員さん達も、ニヤニヤしながら声掛けてきた。なんか?変だナァ〜と思ったけど?階段下りてホームの右側に停車している、赤いメトロに(始発駅なので発車するまで時間があった)乗って発車を待っていたら、突然!始まった‥ビックリ。「次は〇〇線から何分発車〜〜」と駅中に聞こえるスピーカーから、「こ・こ・ろの〜〜 そこ・まで〜〜 しびれる よ〜な〜〜」と荻窪駅中全部に聞こえるように何人かの駅員さん(車掌さんもいたみたい)が代わる代わる歌い始めた。始発だから、そんなにメトロの中は混んでなくて、バラバラだったが、座っている人は立ち上がってウロウロしたり、キョロキョロしたり、「ナンダ?」と降りた人もいたりで、私ひとり、知ら〜〜ん顔して、笑いを堪えるのに困ったけれど‥。サビの「とうきょうで、ひとつ〜ぎんざで、ひとつ〜わかい、ふた〜りが〜はじめてあ〜った〜ほんとうの〜こ〜いの〜ものがたり〜〜」の処は、何人いたか判らないけど全員で歌っていたみたい。楽しそうでした。(昭和のあったかい匂い)Once Upon a Time。

 2コーラスめの「だいじな〜おんなの〜まごころ〜」辺りで発車し始めたように思う。この話をすると、みんな笑い出す、これこそ元祖「発車メロ」かもネ!

 あの頃の駅員さん達まだお元気でしょうか、何回か覚えていませんが、数回歌うのを聞いた。私が乗る度に始まった。それがある日突然「パタ!」っと辞めた。誰かに怒られたのね?

 

 今、メトロ日比谷線銀座駅の発車メロディー、縁があるんだナァ〜と懐かしさで胸キュンです。